ここでは、川崎市が公害の克服に向けて
進めてきた取組の歴史のほか、
新たな環境課題とそれに対する
川崎市の取組について紹介しています。
明治時代、現在の川崎市は多くの町と村に分かれており、農業や漁業がさかんな町でした。
明治時代末期から地域活性化のために町をあげて工場誘致を進め、その結果川崎には大手企業が続々と進出し、職を求めて人が集まり急速に人口が増加した結果、1924(大正13)年7月1日に川崎町、大師町、御幸村が合併し、川崎市が誕生しました。
工業都市として発展を遂げた一方で、昼夜問わず工場から排出されるばい煙による大気汚染や、排水による川や海の水質汚濁が問題となってきました。
工都川崎へ_1(PDF形式, 1.21MB)
別ウィンドウで開く工都川崎へ_2(PDF形式, 1.13MB)
別ウィンドウで開く第二次世界大戦後、産業都市として拡大を続けた川崎市は、京浜工業地帯の中核として発展し、戦後の日本の高度経済成長期を支えました。
1955(昭和30)年以降の高度経済成長期には、川崎市の人口は飛躍的に増加し、それに伴ってごみも増えていきました。
当時はごみの埋立処理が主流でしたが、全国に先駆けて可燃物の全量焼却体制をつくりあげました。
一方で、工場から発生するばい煙、粉じん、騒音、振動、排出水により市民の生活環境は悪化し、健康被害をもたらしました。
公害問題に対する市民の反対運動は次々に広がり、これを受けた川崎市は1960(昭和35)年に「川崎市公害防止条例」を制定しました。
高度経済成長時代と産業型公害の深刻化_2
(PDF形式, 1.01MB)
1970年代、川崎市は「市民生活最優先」の原則を掲げ、公害対策を強化しました。1972(昭和47)年には全国に先駆けて汚染物質の総量規制を導入した、新たな「川崎市公害防止条例」を制定したほか、市民が参加する公害監視会議を市内各区に設置しました。
また、公害防止対策に関する分析、試験、測定、研究を行う公害研究所や、大気汚染の常時監視測定を行う公害監視センターを設置しました。
このほか、企業も公害防止に向けた投資を積極的に行い、様々な公害防止技術が開発されたことにより、1970年代後半には工場などを主な発生源とする産業型公害はかなりの改善が見られました。
一方で、高度経済成長によって人々のくらしは豊かで便利になり、その結果、自動車の排出ガスによる道路沿線の大気汚染や、洗濯機の普及により生活排水の流れ込む川に合成洗剤の白い泡が広がるなどの水質汚濁が進み、新たな都市生活型公害として問題となりました。
川崎市では下水道の整備や生活排水対策を進めるとともに、環境学習教室の開催など市民への普及啓発を行った結果、市内の水環境は大きく改善した一方で、自動車の交通量増加による大気汚染が大きな問題となりました。
1980年代後半以降には、化学物質による環境汚染問題、オゾン層の破壊、地球温暖化など、次なる環境問題も現れてきました。
また、1990(平成2)年にはごみ排出量が市内のごみ焼却処理能力の限界にせまる状況となり、川崎市は「ごみ非常事態」を宣言し、市民や事業者にごみを減らすための協力を呼びかけました。
市内の大気環境が大きく改善するなか、ディーゼル車を中心にさらなる排出ガス対策が求められていたことから、ディーゼル車運行規制や低公害車の普及などの対策を進めたことにより、大気環境はさらに改善していきました。
川崎市は、これまでの公害対策の経験や知識などを海外へ発信するため、2008(平成20)年に川崎市環境技術情報センターを開設し、世界の国や地域と環境分野における先進的な取組の情報交換や連携を進めました。
また、地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出を抑える取組が求められるようになり、1998(平成10)年に地球温暖化防止に向けた計画を策定し、全市をあげて取組を開始しました。
(1)脱炭素化(1-1)
(PDF形式, 1.90MB)
(2)脱炭素化(1-2)
(PDF形式, 4.01MB)
(3)脱炭素化(1-3)
(PDF形式, 3.30MB)
(4)自然共生(3-1)
(PDF形式, 6.80MB)
(5)自然共生(3-2)
(PDF形式, 8.19MB)
(6)自然共生(3-3)
(PDF形式, 14.2MB)
(7)大気・水などの環境保全
(4-1)(PDF形式, 4.50MB)
(8)大気・水などの環境保全
(4-2)(PDF形式, 2.78MB)